ハンダ付け職人のはんだ付け講座
ゴッドはんだ株式会社 滋賀県東近江

経営者紹介

代表取締役 社長
野瀬 昌治  昭和42年生まれ
滋賀県立八日市高等学校卒
島根大学 理学部物理学科 固体物理学専攻 卒
関西NEC(株) 退社後、現在のゴッドはんだ(株)へ入社
趣 味
昼間のメバル釣り、空手、ゴルフ、ピアノ(Merry Christmas, Mr. Lawrence)youtube2019年度版
読書(活字中毒・・)、木工家具作り、庭木の剪定 など・・
特 技
剣道3段、空手3段、スキーSAJ1級
ホームページを通してハンダ付けのノウハウを公開。一般の方からの ハンダ付け作業も請け負い中。
朝日放送【タモリ倶楽部】でハンダ付け講師として出演。ラジオでハンダ付けの専門家として出演したりして『はんだ付けに光を』当てるため活動中。
映像作品に【DVDはんだ付け講座シリーズ】などがある。

2005、2006、2007年【草野派糸東流拳法空手道全国大会】
35歳以上有段 形の部 優勝。
2008年 組み手の部 準優勝
2009年、2010年、2011年 40歳以上組み手の部 優勝!
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社長の生い立ち

1967(昭和42)年 滋賀県東近江市 1月13日の金曜日生まれ。


小学1年生で入学してすぐ、校長先生をからかい過ぎて張り倒され、廊下に立たされるが、ポタポタと落ちる鼻血で直径1mほどの血溜りを造る。
遅れてやってきた担任の先生(女性)が悲鳴を上げる。(今なら大事件?)「こんなひどい生徒は学校はじまって以来だ!」と親が呼び出される。

小学校の卒業文集の将来の夢には、皆が「20代で結婚」「30台で成功して・・」「60台で孫に囲まれて幸せに・・」とまっとうな夢を書く中「ルパンのような泥棒になる」「不死身になり世界を荒らしまわる」と書く。

通信簿にはいつも「落ち着きがない」「情緒不安定」「授業を妨害して困る」と書かれる。
6年の担任の先生に親は「この子はきっとヤクザになりますよ!」と言われる。(そんなこと言うか・・)
でも、理科だけはいつも100点。(勉強漫画で勉強してました)
中学・高校では、英語は「どうせ翻訳機ができる」と勉強せず赤点。
入試に英語のなかった島根大学理学部物理学科に進む。

初めての一人暮らし。親のありがたみを知る。
地味な学生。「エンゲルまさはる」と呼ばれる。(一人で鍋などの豪華な自炊をしていたので)

固体物理研究室で「ハカイダー」と呼ばれる。(実験装置を次々に破壊したので・・)

関西NEC(当時)に入社。


研修後、NECニチデン機械へ出向。
宇宙実験用の電気炉の開発に携わる。※今から考えると自分の権利ばかり主張するおバカなやつでした。この場を借りて、当時の上司の方々にお詫びいたします。

この後、関西NECを退社してノセ精機に入社。


ノセ精機は先代の父(要太郎)が40年前に始めました。

当時はO社の100%下請けで食っていまして世の中はバブル景気の真っ只中でした。
会社の主力製品は、リレーやフォトマイクロセンサで毎日30,000個も生産しておりました。

材料は無償支給、設備は貸与、生産計画もO社任せで言われた通りに品質、コスト、納期のQCDさえ守っていれば右肩上がりで成長していけた時代でした。

ただし、悔しい思いもしました。白いものでも黒だと言わねばならない理不尽な要求にも耐えました。
O社の担当者の機嫌を損ねることは即、仕事が無くなる事につながります。

こんな時代が私が入社して15年ほど続きました。今から思えばこの時期に、「何も考えない」腑抜けになってしまったのでしょう。
この頃、関西NECで同期だった妻とも結婚しました。子供も2人授かりました。


バブルがはじけた2002年くらいからO社の戦略が変わりまして、量産品はすべて中国で生産することになりました。
それまで「うち以外の仕事はしてはダメだよ」と言っていたO社の担当者の言うことが「うちの仕事以外の仕事を見つけないと知らないよ」と180度変わりました。

「悪いようにはしないから・・」と言っていたO社の管理職の面々も、片っ端から出向、退職へと追い込まれていきました。
あっという間に、当社の売り上げは1/10まで減少。
大赤字が続きます。

あわてて慣れない電話アポや飛び込み営業をやりますが「何でもやります!」「何でもできます!」といった「お願い営業」は、虫けらのように「しっしっ!」と追い払われます。
落ち込んで情けない気持ちになり「もう営業なんてしたくない・・」と仕事がイヤになります。
それでも、従業員さんたちの仕事を確保するためになんとか仕事を取ってこなければなりません。

特殊な技術があるわけでもなく、田舎の町工場の工賃下請け仕事です。
足元を見られてますから、安い仕事しか取れません。
無理にお願いして取った仕事ですから安いからと言って断るわけにもいきません。
忙しくて残業をしてても、やればやるだけ赤字になるという何をなっているのかわからないような状態が続きました。


妻には「仕事してるのに、お金が出て行くのっておかしいやん!」「勤めに出て!」と言われる始末でした。
結婚当時は給料も多かったですから、「だまされた・・」というボヤキも当然ありました。

運転資金は当時社長の父が蓄えを崩して出してくれていましたがいつまでも続きません。

2004年ごろ「もうあかんな・・」「閉めようか?・・」と親族会議を開きました。

このとき、「もうちょっとだけ待ってくれ!」と私は頼みました。
まだやりきれていないことがありました。
このころ、私はあがいておりました。
「このままではいけない」
「新しい事業をはじめなければならない」
「自社商品を開発したい」
「特許をとりたい」
とようやく自分の頭を使って考えるようになっていたのです。いろんなことを試していました。
たとえば、「あそこの会社は儲かってるらしい」と聞けば、飛び込み営業ではなく、社長に「成功の秘訣を教えてください」と聞きにいきました。


成功者の皆さんは、快く質問に答えてくださいました。私が聞いた成功のパターンは次の3つでした。
1:ブランド
2:アイデア
3:最先端設備の導入
私には、ブランドも資本もありませんでしたから「アイデアで勝負するしかないな・・」ということはわかりました。
私は活字中毒者で歴史小説や伝記、エッセイなんかを読みまくっていたのですが、これらを禁止してビジネス本を読むことにしました。

「金持ち父さん」にはじまって、怪しい金持ち本はすべて読みまくりました。
Amazonで注文しては、売ることを繰り返していました。(新刊が安く読めます)
当時は、WEBマーケティングやセールスレター、ダイレクト・レスポンス・マーケティングなどで成功している方が続出していた時期で今まで、下請け仕事しかやったことのなかった私の、仕事に対する考え方を根底から覆してくれました。

同時進行として、【下請け脱却プロジェクト】と称して「趣味を仕事にできないか?」を模索していました。

1:木工家具職人


木工が好きだったので、近所の製材所と大工さんに教えてもらいながら、ケヤキの木工家具職人を目指しました。上手くいったら、パートの従業員さんたちにも木工をしてもらうつもりでした。
本人は一生懸命ですから、工場の片隅で従業員さんたちの冷たい視線を尻目に、チュイーンとケヤキを切ったり削ったりしていました。

でもいくつか作品を創ってみて、「これ幾らやったら買うかな?」「月にいくつ売れたら食っていけるかな?」
ということをシュミレーションしてみますと「これじゃ食っていけない!」ということに気がつきました。

木工家具職人は諦めました。

2:陶芸家


次に目指したのは陶芸家です。信楽焼きが好きで信楽によく器を買いに行っていました。
ちょうどアウトドア雑誌に「七輪陶芸」という記事があり、七輪で立派な焼き物が焼けることを知って「よし!これだ!」と上手くいったらパートの従業員さんたちにも粘土をひねってもらおう・・と思いました。

私の住む東近江市は、昔琵琶湖の底だったそうで古琵琶湖層という良質の粘土が採れます。
近所の川原に行くと粘土は簡単に採集できますのでこれは天職かと思いました。

粘土を採集し、ぐい呑みをひねり、釉薬も採集してきました。さあ、七輪で焼きを入れます。
七輪に炭を入れ、ドライヤーで送風しますとレモン色の火柱がゴゴーッ!と5mも上がりました。
おそろしい光景です。
中のぐい呑みがオレンジ色にピカッと光っています。「おお!焼けてる!」と思ったのもつかの間、ぐい呑みは「うにゃり」と変形し溶けてしまいました。

次々に焼きましたが、パリンパリンに割れてしまったり溶けてしまったりで、1個も成功しませんでした。

「陶芸家はやめとこう・・」と諦めました。

3:骨董品屋


次に目をつけたのが古民具や骨董品です。
バブルの時に建てた家には、インテリアとして古民具を飾っていました。
それらを買い集めるのに、古民具屋や骨董市などには足しげく通っておりました。
火鉢や鉄瓶、カゴなど集め始めましたがある日、気がつきました。
「これって、従業員さんたちの仕事を生み出さない」店主だけで成立する商売です。

古民具屋さんは諦めました。

4:フナムシホイホイ


なにせ資本金がないので、新製品を創るにも高価なものは無理だと思いました。
「紙製品なら開発費が安くつく?」かと考えなにか紙を使った製品を創ろうとしました。
趣味の釣りを生かせないかと考えた挙句図書館で「グレ(メジナ)釣りの餌にフナムシがたいへん有効である」という記述を見つけ「これだ!」と開発に乗り出しました。
一度入ったら出られず、なおかつ殺さない構造を日夜考えては、試作品を作り、釣りのついでに海へ持っていっては実験を行いました。
そして、何匹かのフナムシは確かに捕まえることができるようになりました。パッケージやコピーも考えました。
ところが、肝心のグレが釣れません。しかも活きているフナムシに針を刺すのはとても気色が悪い。
「これは、売れんな・・」

フナムシホイホイは諦めました。

5:オオクワガタの養殖


当時、まだインターネットは一般的なものではなくパソコン通信というとニフティサーブの会議室でマニアックな話をすることを指していました。
ニフティのオオクワガタの会議室では、大きなオオクワガタを育てる方法について熱い議論が交わされていました。
「え? あのオオクワガタが養殖できる?!」
いきなり10ペアを大人買いです。
小学生の頃は、昆虫少年でした。探しても探しても捕まえられなかったのがオオクワガタでした。子供の頃、夢にまで見たオオクワガタです。(しょうがないですね)

オオクワガタの幼虫はキノコの菌糸瓶で育てます。同級生が近所でアワビ茸を栽培しています。 菌糸瓶は、産業廃棄物になっていました。捨てるほどあります。天職かと思いました。

我が家の2階には、10個のケージが並びました。大事に大事に育てましたが、2年経っても産卵しません。
「ちょっと待てよ・・」
月50万稼ぐためには、いったい何匹のオオクワガタを毎日売らねばならないかを計算してみました。
数年前まで「1匹100万円!」という記事が載っていたオオクワガタでしたが、この2年で1匹800円にまで値下がりしていました。

計算すると、恐ろしい数字が出ました。
1匹500円とすると・・毎日100匹出荷しても20日でやっと100万円・・
毎日100匹出荷するためには、何匹オオクワガタを飼育しなければならないか・・

10ペアのオオクワガタは、近所の子供に配ってあげました。子供たちがとても喜んでいました。
(初めての社会貢献でした・・)

5:熱帯魚の養殖


小学生の頃から、小魚を飼うのが好きでした。結婚してからは、南米のアピストという美しい魚を飼っていました。
ある日、アピストのペアが産卵していました。「これや!」たちまち、水槽の数が10本にも増えました。
我が家は、水槽やらオオクワガタのケージやらでいっぱいです。
大事に大事に育てていましたがアピストの卵は孵ることなく、2度と産卵することもありませんでした。
「ちょっと待てよ・・」
月50万稼ぐためには、いったい何匹のアピストを毎日売らねばならないかを計算してみました。
当時アピストは1ペア2,000円程度でした。いったい何本の水槽が必要か・・「住む所がなくなるな・・」
水槽はその日以来、自然に減っていき現在は、1本に戻りました。

7:理想のスピーカーの製作


私は、イエロー・マジック・オーケストラ(初期YMO)の隠れマニアです。
故、長岡鉄男氏設計の自作スピーカー(スワンa)などを製作して、ちょっとしたオーディオマニアを気取っておりました。
妻や子どもらに「このスピーカー 邪魔や!」と言われるたび 「こんなええスピーカーはない!」と豪語しておりましたが心の中では、「いまいちライブの迫力が欠けるな・・」と感じておりました。
そこで、長岡氏の著書にある理想のバックロードホーンの図にある楽器のホルンのような オウムガイのような サザエのような音道ホーンを持つスピーカが 「造れんかな?・・」と模索しておりました。
ある日、ケヤキの机の脚を削っている時に閃きました。
「理想のスピーカーを縦にスライスしたものを組み合わせたら?・・」とりあえず5mm厚のベニヤ合板に音道の絵を書いてジグソーで切ってみることにしました。

疲れました。手に怪我もするし・・。
「ジグソーで切るのは無理だ・・」と諦めかけた時、友達のメカ設計屋さんから「レーザーやったら切れるかもしれんね・・」という貴重な意見をもらいました。(本来、鉄板を切り取っている装置です)

そのメカ屋さんの協力を得て、レーザーでカットすることに成功しました。
私的には、「すごいものを創ってしまった・・」と思いましたが調べてみると、すでに商品化されていました。
http://www.hasehiro.co.jp でも、このスピーカーは現在も活躍中です。凄まじい音がします。
息子(当時7歳)も「うるとらまんティガが、ここで歌っとると思った・・」と・・たいへん好評でした。(子供は正直です)
こうして、スピーカーの事業化は諦めました。

8:作家を目指す


1999年ごろから、釣行記や空手の稽古日誌を趣味のHPにUPしておりました。
そこそこアクセスも集まり、面白いと褒めてもらいました。
そこで「これ、本にならんかな?」と加筆修正して、「○○大賞募集!」などという、原稿を募集する出版社にいくつも送ってみました。
すると申し合わせたように、
「1次予選通過しました」
「2次予選も通過しました」
「最終選考に残りましたが惜しくも、出版化は見送られました」という通知が来ました。

その後は、電話での褒め殺しです。
「この作品は世に出さないのは罪です」「世の損失です」「共同出版しましょう!」「200万円で出版できます!」「私たちが全国書店で販売します!」

こういう褒め殺しを初めて体験する私はかなりグラリとしましたが、お金がなかったので断りました。
1年後に、共同出版という名の詐欺商法が新聞に大きく取り上げられいくつかの出版社がバタバタと倒産していきました。
「あぶなかったなあ・・」
美味い話には気をつけねばなりません。

ついに見つけた!!


こんなばかげたことを同時進行しつつ常に頭の中では考えていました。「うちに売るものはないのか?」をです。
O社との取引も完全になくなって数年経っていました。
「そろそろ処分してもいいかな・・」と、昔の分厚く赤いクレーム対策書をパラパラと捲っていました。
改めて見てみると、クレームの95%は【はんだ付け】が原因でした。
「なんやかんや言うても、やっぱり【はんだ付け】が命やな・・」
「はんだ付けは、教えるの難しいもんな・・」
「他の会社はどうやって教えてるのかな?」
このとき「はっ!」と気がつきました。パソコンに向かってWEB検索してみました。

「はんだ付けに関するホームページはない・・」
「はんだ付けを教える本もない・・」
「これからはんだ付けを学ぼうとする人は、どうやって学ぶのかな?」
「みんな困ってるはず・・」

「自分の持つ拙い知識でも人によっては役に立つのでは・・」

これが、はんだ付けのHPを制作するきっかけでした。
私が知る限りのはんだ付け情報を詰め込んだHPを公開したのが2004年の11月でした。

HPではんだ付け職人を名乗り「はんだ付け講座」を公開すると毎日、質問のメールと電話がありました。
私が知らないこともたくさんありました。片っ端から調べて回答しました。
同じ質問が何度も来て、回答するのが面倒なのでHPの情報をどんどん更新していきました。

はんだ付けを猛勉強する日々!


こうして、私は短期間ではんだ付けのことについて猛勉強することになりました。
「発信すれば何倍にもなって帰ってくる」というのは、このことを言うのか・・と納得しました。

そうして、毎日お客さんと対話しているうち「はんだ付けをビデオで観られたらいいのにねぇ」とおっしゃるお客さんがありました。
「それや!」と【DVDはんだ付け講座】の制作を決心しました。

2004年のクリスマスにはもう撮影を始めていました。年末の忘年会も断り、年始もどこにも行かず一人で会社で撮影を行いました。(音が静かだったのです)

社長や家族は反対しました。
「そんなもん売ったら仕事がなくなってしまうぞ!」「5枚も売れたら御の字や」「そんなもんにお金使わんとき」

友人達にも「DVDを創るねん」という話をすると「ふーん・・」という冷たい反応。

あとで聞いた話では、「あいつはもうダメだ・・」と思ってたらしいです。
従業員さんたちも、一日中パソコンに向かい営業にも行かない私を白い目で見ていました。
この頃の私は、口ばっかりの大法螺吹きだと思われていました。
まったくの素人でしたが、DVDの制作は着実に進んでいきました。

でも、とても不安でした。
「1枚も売れなかったらどうしよう・・」
「逆に仕事が無くなってしまったらどうしよう・・」と・・
そのときは、「会社を閉めて勤めに出よう」と妻とも話をしていました。 そして、DVDが完成したのが2005年の4月でした。

大反響だったDVD


テレビや雑誌に取り上げられたこともあり周囲の予想に反してDVDは毎日売れました。

同時に始めた、個人向けのはんだ付け請負い「Dr.はんだ付け職人」にも毎日依頼が来るようになりました。
そればかりか、日本を代表する企業や大学からも直接依頼が舞い込むようになりました。

ここでおかしなことに気がつきました。

はんだ付けの仕事は、昔から行っていましたが、O社のような大手企業や工賃下請けの飛び込み営業では1個あたり10円くらいにしか認められませんでした。
しかも、上手くいって当たり前、褒められる事などありません。(文句は山ほど言われますが・・)
ところが、こうした技術を必要としているところへ適切に売ることが出来れば、同じ技術が1個あたり10,000円にもなるのです。

しかも、「ありがとう」とお礼を言っていただけます。(お金をいただいているのにです)
これは驚きでした。
そして思ったのです。
「日本の中小・零細の下請け企業は不当に安く技術を買い叩かれている!」と

確かに大手から安定して量産品の仕事をもらえば楽して儲けることが出来ます。
しかし、それは考えることを放棄することを意味します。かならず、大手に依存するようになってしまいます。
自分で販売することが出来ないのでリーマンショックのような景気後退があると打つ手がなくなってしまいます。(かつての私のように・・)

中小・零細の下請け企業には自分では気付いていない優れた技術があるはずです。(でなければ生き残っているはずがない)
そうした技術を掘り出してどうやって売るか?
ということの一つの解が「ゴッドはんだ株式会社」にあると思います。

日本の中小・零細下請け企業が元気になるヒントがあるような気がします。

「日本はんだ付け協会」NPO法人立上げ。


その後、私は「日本はんだ付け協会」というNPO法人を立ち上げました。
誤解だらけのはんだ付け知識が蔓延する世の中で、誤った解釈による理不尽なはんだ付けの要求に対してかつての私のように悔しい思いをする中小・零細企業をなくすのが目的です。
また、はんだ付けの暗くネガティブなイメージを払拭し、誇るべき技術としてはんだ付けが広く認知されるような活動を行っていきたいと考えています。

長々と読んで頂きありがとうございます。
はんだ付けに光を!

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